ガリア戦争(羅Bellum Gallicum、ベッルム・ガッリクム)は、紀元前58年から49年にかけて、古代ローマの武将ガイウス・ユリウス・カエサルがガリアに軍事遠征してその全域を征服し、共和政ローマに併呑した戦争。カエサル自身の著書『ガリア戦記』にはその経過が詳しく記されているが、著者自身が一方の当事者(総司令官)であったので、プロパガンダ(政治宣伝)の部分を割り引いて解釈する必要がある。古代ローマが行なった数々の戦争の中でもガリア戦争の特徴の一つは、この戦争がローマの興亡に直接関わるものではなく、むしろカエサル個人の武将としての実績・名声と勢力伸長に大きく寄与したという点である。紀元前58年、カエサルはガリア・キサルピナとガリア・トランサルピナ両属州の総督に任官した。現在のスイスの山岳地帯にいたガリア人(ケルト人)のヘルウェティー族が西方へ移住を始めると、カエサルはローマ属州と友好部族の保護などを口実にヘルウェティー族に戦争をしかけてこれを破り、元の居住地に押し戻した。同年に続いて、北方からガリアを圧迫していたアリオウィストス率いるゲルマン人との戦争になり、これをも打ち破った。続く数年間で、カエサル率いる私兵軍団は現在のベルギーへと転戦してガリア人のベルガエ族やゲルマン人を破ってゲルマニア(現在のドイツ)の一部までを制圧、ガリア西部(現在のフランス)も制圧し、渡海してブリタンニア(ブリテン島)南部をも占領した。カエサルは元老院に「ガリアは平定された」と報告した。しかし、紀元前54年頃からガリア諸部族の反抗が始まり、紀元前52年にはウェルキンゲトリクスを盟主とするガリア人の同盟は、カエサルの軍団を前後から包囲して窮地に陥れる。窮したカエサルは、ウェルキンゲトリクスの居城であるアレシアを攻囲した(アレシアの戦い)。一時はカエサル自身もかなり危い状況だったが、やがて後方から援軍が来着し、形勢は逆転した。ガリア諸部族は敗走し、ウェルキンゲトリクスは投降した。彼はローマへ護送され、後年処刑された。その後の戦後処理により、カエサルはガリア全域をローマの支配圏に組み入れた。この戦争により、カエサル自身も将軍としての実績を積んで権威を高め、ガリアからの莫大な戦利品により財産を蓄えた。また、長年の苦楽を共にした将兵たちは、共和政ローマにではなくカエサル個人に忠誠を誓うようになり、精強な私兵軍団を形成した。紀元前53年にパルティアと戦っていたクラッススが敗死して三頭政治が瓦解した。名声高まるカエサルの勢力を恐れた元老院派と結んだポンペイウスはカエサルと対抗する傾向が強まり、紀元前49年に元老院がカエサルを属州総督から解任して本国召還する勧告を発布。カエサルはただちに私兵軍団を率いてルビコン川を渡河し、ポンペイウスとの内戦へと突入する。ガリア戦争で培ったカエサルの実力は、ポンペイウスを圧倒してゆくことになる。