ペルシア戦争(The Greek and Persian Wars)は、紀元前492年から紀元前449年の三度にわたるアケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征をいう。「ペルシア戦争」とは、ギリシア側からの呼称であって、中立的な名称ではない。学者によっては勝者の名を冠して「ギリシア戦争」 とも呼ぶ。この戦争は、東方の新興勢力であるアケメネス朝ペルシア帝国と、西方のやはり新興商業国であるアテナイによる地中海貿易路の利害対立によって引き起されたと考えられる。アケメネス朝ペルシア帝国は、キュロス2世が、紀元前547年に小アジア随一の強国であったリディア王国を併合し、さらにダレイオス1世がスキティア(黒海北西部)、トラキア(黒海西部、ボスポラス海峡からダーダネルス海峡一帯)、ギリシア北部のマケドニアを勢力下におさめることに成功した。紀元前518年にはリディア王国の首都であったサルディスに総督(サトラップ)を置き、小アジア全土のほか、レスボス島、キオス島、サモス島などのエーゲ海東部の島嶼を支配下においた。当時、有力ポリスになりつつあったアテナイは、小アジアに向けて陶器とオリーブ油の輸出を行っており、人口の増加にともなって黒海沿岸から多量の穀物を輸入するようになったと考えられている。アテナイにとって、これ以上のペルシア帝国の勢力拡大は、商業海域を脅かす厄介な問題であった。このため、アテナイ民会は直接的な対立を避けつつも、紀元前499年に起こったイオニアの反乱に対しては反乱軍を援助、ペルシア帝国を牽制した。しかし、アテナイによる反乱への介入は、ペルシア側にギリシア侵略の恰好の口実を与えることになってしまった。アテナイでも、イオニア反乱の後、しばらくの間はアルクメオン家を代表するペルシア宥和派とミルティアデスら対戦派による激しい議論がおこっていたと考えられるが、ミレトス陥落の後は徐々にペルシア強硬派の勢力が台頭するようになっていた。こうした中、イオニアを平定したペルシア帝国はギリシアへ軍を派遣し、これがペルシア戦争と呼ばれる一連の戦争に発展することになる。