義和団の乱(ぎわだんのらん)は、中国清代に華北地方でおこった排外主義を伴った大衆運動と、その後の欧米列国軍との一連の戦闘を指す。「義和団の乱」の名称は、義和団という秘密結社が引き起こしたことに由来する。義和団事件、義和団事変とも。また北清事変(ほくしんじへん)との呼び方もある。日本でもマルクス主義が盛んであったころは、「輝かしい民衆の反帝国主義闘争」とイデオロギーの視点から称揚する歴史家も多かった。しかし、現在ではごく普通の土俗性の深い民衆が日ごろの不満を外国人排斥運動として爆発させ、清朝が尻馬に乗ったものという見方が一般的である。しかし、その爆発は欧米諸国の圧倒的な武力によってあえなく粉砕されてしまった。すると特に知識を持った人々の多くは、新たな不満の対象として、侵略から国を守ることができない清朝自身に向かうようになった。特に留学生として日本に渡った者は、ナショナリズムという概念を取り入れ、国家存亡の危機感とともに、「漢人国家の樹立」「滅満興漢」といった考え方を持つようになっていった。多くの留学生がそれに賛同して革命組織が生まれるようになり、清末には彼らによる蜂起・テロがたびたび発生した。一方で清朝の漢人高官らも大きな危機感を抱き、光緒新政の名の下改革に取り組むようになった。自ら西洋の知見を取り入れようとも考え、1905年には岩倉使節団と類似した形で出使考察を行った。しかし、改革は満州貴族の反対や、議定書の賠償金に苦しみ、軍事面を除きなかなか進行しなかった。そして1911年の辛亥革命を招くことになるのである。