承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)は平安時代中期に、ほぼ同時期に関東と瀬戸内海で起きた平将門の乱と藤原純友の乱の総称である。この乱の鎮圧を通じて、萌芽的な武士の初期世代の中から初期の正統な武士の家系が確立した。関東では平将門が同じ武芸の家の者としてライバル関係にある親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて将門は受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから国衙襲撃に至り、朝廷との敵対に追い込まれた。将門は関東一帯を制圧して新皇と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとした。しかし、平貞盛、藤原秀郷らの攻撃を受けて短期間で滅ぼされた。瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。二つの乱は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられた。これらの乱は発生期の1世代目から3世代目にかけての武士が、乱を起こした側、及び鎮圧側の双方の当事者として深く関わっている。乱を起こした側としては、治安維持の任につく武芸の家の者としての勲功認定、待遇改善を目指す動きを条件闘争的にエスカレートさせていった結果として叛乱に至ってしまった面を持ち、また鎮圧側も、乱を鎮圧することでやはり自らの勲功認定、待遇改善を図った。結果として鎮圧側につくことでこれらの目的を達成しようとする者が雪崩的に増加し、叛乱的な条件闘争を図った側を圧倒して乱は終結した。以後、承平天慶勲功者子孫こそが正統な武芸の家の者、つまり武士とされるようになった。