太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は中国清代に起きた大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起こされた。一衣帯水の関係にある中国と日本では、すぐに太平天国のことが幕末の日本に伝えられた。当初太平天国はキリスト教が土着化して発生した叛乱とは見られておらず、明朝の後裔が起こした再興運動だと日本人は思っていたようだ。つまり今風に言えば満洲人支配に反抗する漢民族という図式の民族紛争と捉えていたことになる。これは「滅満興漢」というスローガンが強調されたこと、 辮髪を落としていたことが原因であろう。清朝では「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」といわれるように、辮髪の有無がその支配を受容したか否かの基準となっていたからだ。また農民など低階層が乱の主体であったという認識も希薄であった。しかし『満清紀事』・『粤匪大略』といった書物が日本にもたらされると、知識人層の太平天国に対し好意的な評価は一変した。洪秀全が明朝の後裔ではないこと、キリスト教を信仰していることが伝わったためである。特に後者は島原の乱を想起させ、幕末の世論に影響を与えた。太平天国への嫌悪感は、実際に乱を見聞した人々にも継承されていた。1859年にはイギリス領事(後の公使)オールコックから江戸幕府に対して、軍用馬の3千匹をイギリス軍へ売却してくれる様に要請があった。幕府も国内の軍事的需要を理由に当初は躊躇したものの、英仏両軍に1千匹ずつ売却する事に応じて翌年夏までに実施された(この前後の日本の輸出品の中には主力品である生糸や茶の他にイギリス・フランス軍のために用いられたと思われる雑穀や油などの生活必需品の輸出記録が目立っている)。更に太平天国の末期にあたる1862年6月2日、幕府の御用船千歳丸というイギリスから買い取った船が上海に到着した。交易が表面上の理由であったが、清朝の情報収集が本当の任務だった。江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方に深い関心を寄せていたのである。搭乗していたのは、各藩の俊秀が中心で薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作らがいた。乗船していた藩士の日記には太平天国について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」という表現がならぶ。ただ辛亥革命前後から、太平天国への評価は再び持ち直したようだ。これは中国本土でも同様であった。革命の立役者孫文が太平天国に深く傾倒していたことや、キリスト教信仰が明治維新以後解禁されたことから抵抗感が薄れたためであろう。洪秀全たちは長崎から亡命した大塩平八郎が名を変えたもので、その後太平天国の乱を起こしたのだ、という珍説まで一時流布した。太平天国と日本との逸話は、昭和になってもある。洪秀全の郷里広州花県に、1930年代(年不確定)に日本軍から洪秀全の子孫だという兵士が二人訪れたという話がかの地に伝えられている。これは日本軍の宣撫工作であったと思われる。