島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆による反乱であり、幕末の動乱に至るまでの最後の本格的な内戦であった。島原・天草一揆ともいう。 寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発~寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結。島原の乱が天草と連動した原因の一つは、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことにあった。すなわち、寺沢は天草の石高を田畑の収穫を3万7000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5000石とし、合計4万2000石と決定したが、実際にはその半分が妥当な数字であった。寺沢が石高を実際の生産量の2倍に算定したため、徴税は過酷となり、農民、漁民を含む百姓身分の者たちを一揆に追い詰め、武士身分から彼らと同じ百姓身分に転じており、村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として密かに一揆の盟約が成立。さらには反乱に立ち上がることによる内戦に至ったのである。島原の乱後、山崎家治が天草の領主となったが、3年で讃岐国丸亀に国替えとなり、天草は幕府直轄領、いわゆる天領となって、鈴木重成が初代の代官となった。鈴木は浄土真宗(一向宗)の教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、同宗の僧となっていた兄の鈴木正三(すずきしょうさん)を天草に招いて、住民の教化につとめる一方、住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域、例えば大矢野島などには周辺の諸藩から移住者を募って復興に尽力した。そして、天草の貧しさの原因を過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は、検地をやり直し、幕府に対して、何度も天草の石高の算定を半分の2万1000石にするよう訴えた。しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。そのため、重成は1653年、江戸の自邸で石高半減の願書を残して、切腹し、幕府に抗議した。幕府はこの事態に驚愕し、重成の死因を病死と発表し、養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。この事実はやがて、天草の領民にも伝わり、領民は皆、号泣したと伝えられている。重辰もまた天草の石高半減を訴えたため、1659年、幕府は天草の石高半減を認めた。重辰が畿内に転出した後、戸田忠昌が封ぜられて領主となったが、戸田忠昌は寺沢広高が構築した富岡城を破壊して、陣屋造りとした。これは、領民の負担を軽減するためである。さらに戸田は離島が多く、農業生産力が低い天草は私領に適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。戸田の提案は認められ、天草は1671年、再び幕府直轄領となった。天草における反乱の原因は寺沢広高による天草の実情を無視した統治にあった。その是正に島原の乱の鎮圧から30年以上の年月を必要としたのである。天草の場合、島原半島よりも隠れキリシタンによるキリシタン信者の潜伏残存率は高かったといわれる。これは離島が多く島原半島南目地域のように根こそぎ住民が反乱に動員されることが容易でなく、島原半島南目ほどには無人地帯が広がらなかったこと、また江戸時代も半ばになると、幕府直轄領である天草から産する海鼠、鮑、鱶鰭などの海産物の乾物(俵物)がやはり幕府直轄領である長崎を通じて清朝治下の中国に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタン信仰の過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。