白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(大韓民国の東津江下流と推測される)で行われた、百済復興を目指す倭国(後の日本)の水軍と唐の水軍が戦い、倭国水軍が大敗した戦い。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることも多い。超大国唐の出現によって東アジアの勢力図が塗り変わる中で起きた事件であり、その後の日本の政策に大きく影響した。倭国は、百済滅亡で多くの百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。その影響で急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令と呼ばれる法令群が策定され、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進んだ。そして、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。以上のように、白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設を結果としてもたらしたのだと考えられている。なお、百済王の一族、豊璋の弟・善光(または禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。古田武彦の主張する九州王朝説によれば、白村江で戦ったのは近畿大和朝廷(倭国)軍ではなく大宰府に都した九州王朝(倭)軍であり、倭王の薩夜麻が唐軍の捕虜になったことが敗因であり、薩夜麻は8年間、筑紫君として唐で人質生活を送り、その帰国後も669年から唐の武将郭務(王宗)などが進駐軍として、大宰府を事実上進駐占領していたとしている。